よく読むこと、よく考えること。~「拡散」というものの難しさ・その1
2014/03/01
今年の2月、日本とりわけ太平洋側では、普段雪など降らない地域に豪雪災害が起き、産業や物流、人々の生活に、多大な影響を及ぼした。
報道が五輪に重点を置かれ、ニュースであまり見なかったからなのか(というか、視聴者のほうも気を取られていたのもあったのかもしれないが…いや、私だけなのかもしれないが)、その大雪の情報があまり見受けられなかった。私が見落としているだけなのかもしれないと、TwitterやFacebookに情報を求めた。Twitterでキーワード検索をかけると、大雪の状況報告や大雪で大変な様子の各地をを写した写真のツイートが、結構な数流れてきた。
その中で「拡散希望」と書かれたツイートがリツイートで流れてきた。そのツイートに載っていたアメブロらしきブログ記事のURLリンクを見てみると、「Twitterで拾った、甲信地方の画像です。現在、甲信地方は大変なことになっています。この記事の拡散をお願い致します。」という旨の文章と共に、先ほどTwitterで見た画像が幾つか転載されていた。
個人的に、「あぁ、アメブロの一般人ブロガーって、この手の記事を投稿する場合が多いなぁ~ちゃんとNAVERまとめのようなまとめ記事にすればいいのになぁ、そうすればお望み通りに、もっと拡散しやすいだろうに…」と思って流し見していたが、特に気にも留めずにそのままスルーした。
しかし、その後、Facebookにまで、そのブログ記事の「拡散」は続いて来ており、私のニュースフィードにも幾つか流れてきた。
私も、山梨に長きに渡って交流を続けていたネット友達がいるので、「大雪の情報があまりニュースで流れてこないけど、現地での写真がUPされているので紹介してみよう」という思いでリンクシェアをした。他の、大雪情報コミュニティや現地の情報交換グループを、どうか山梨の友人に情報が届くように…との思いで紹介した。
それから翌朝、Facebookのニュースフィードを見ていたら、次に飛び込んできたのは、「このブログ記事を安易に拡散するな」という記事だった。
一瞬、私は「えっ?」と思った…そのシェア元ポストへ飛んで、よくよく読んでみると、「東日本大震災の時の情報氾濫による混乱を招くようなことをしないためにも、安易なシェアやリツイートはすべきではない、情報に責任もって、拡散しない自制を」と書いてあったのだが、ご丁寧にも前述のアメブロ記事へのURLリンクをかけて、「悪い例」の見本としてシェアしていたのだ。
…世の中の、ネットユーザーって、そんなにネットリテラシー(情報選別力という意味での)が無いもんなのか?
ネットリテラシー(情報識別能力)が無いなら「情報拡散するのは良くない、自制・自重しろ」というのは、ちょっと違うんじゃないか。識別・分別のつかない情報弱者の人に向けてそう書いたのだろうが、ネットしてる人って、そんなにバカな人が大多数なのか?
その情報弱者に向けて「安易にシェアするなよ、現地の人や関係者はみんな迷惑してるんだから、震災で教訓として学んだろ?」と書いてそれをネット上に放ったら、特にSNSに、その投稿主が暗に揶揄している情報弱者がネット上に大多数だとしたら、本来掬い上げるべき情報も淘汰の海に投げ捨てる結果になるんじゃないか…と。
現に、山梨県選出の国会議員さんが、Facebook上で政府・自治体側の現状報告を上げていた。その肩は、政府や自治体との交渉の現状報告と共に、「SNSを情報収集に役立てましょう、情報交換し合いましょう」と書いていらした。例えば、もしそれさえもネットユーザーの「安易に情報拡散はするな」の範囲内に捉えられて否定したら、どんなわずかな情報でさえも欲しいと思っている受け取り手側のネットユーザーにすれば、取り付くしまも無いんじゃないだろうか。
もしかしたら、何とか電気があって、ネットでしか情報が得られない、情報を出す手段がネットしか無い、という人だっているはず。
無駄に情報撹乱させるようなガセネタを発するバカがいるから、枝葉をバッサリ切り捨てて「情報拡散する場合はよく考えろ、それが出来ないなら自制しろ」と書いたのだろう、しかし、それも一理あるのは否めないが、情報を取捨選択すること・識別できることが出来ない考え無しの人は、情報持ってても判断出来ずに簡単に「あ〜自制したほうが良いのかな」と何も発さずに終えてしまったら、それこそもっと残念な方向にいく懸念だってあるんじゃなかろうか。
そう思う前に、そのポストの「ずいぶんしたり顔で書かれた内容」の文章に、きっと私は、大変な違和感を覚えたのかもしれないが。
必要な情報かどうかは受け取るほうが決める、情報が全て正しくて価値があるものとは限らないしガセもあるというのはネットでもリアルでも同じこと。流したい人はスルーして、受け取りたい人は受け取ればいい。そんな選択も出来ない、ある意味「素直すぎる」人は、世の中に、そんなに多いもんなんだろうか…そう思いつつ、動向を見守ることにした。
そして次の日に、Facebookでのその該当ポストと、そこで紹介されていたアメブロと、FacebookやTwitterなどのSNSや他ネット上での流れを見て回った。
該当ポストのシェア数は300を超えていた。そして、そのポストでも叩かれ、Twitterでも叩かれ、その記事自体のコメント欄でも叩かれ炎上してしまったがために、とうとう記事削除の憂き目に遭っていた。
記事削除したアメブロのその後の記事では、「私が書いたブログがかなり誤解されていて批判のメッセージがどんどん届いています。(中略)結果的にお騒がせしたようになりまして大変申し訳ありません」(要約)とお詫び記事が掲載されていた。
…案の定、私が予想したとおりに、ブログ炎上となってしまっていた。
拡散されていた情報を叩き台にして、その情報の中に含まれていた「その他の有益な情報」までもを道連れにして別のあらぬ方向に仕向けて、一体、何の得なのだろうか?
安易とは言え「拡散希望」と書かれたブログを自らの持論展開の叩き台代わりにスケープゴートにするほうが、情報拡散の是非善悪を問うよりも、一番の問題なのではなかろうか。
被害、炊き出し、除雪アドバイス…SNS、情報収集に活躍 -- 山梨日日新聞
この記事には、情報収集におけるSNSの有益性とともに、情報拡散のメリット・デメリットにも簡潔に触れている。
少なくとも、私は、東日本大震災の時にSNS…特にTwitterに大変お世話になった。時に情報が撹乱・交錯することもあったが、それでも取捨選択を自分でも心がけるように成長できた。私に限らず、他の大多数のユーザーの皆さんも、清濁併せ持つ情報の海の中にあっても、それぞれ判断力を培いつつ収集や交換に努めておられていた。それは、Twitterだけでなく、Facebookでも他のネット上のあらゆる情報も、そうだったと思う…あらゆる情報が氾濫するネット上で、その中で、自らの情報選別力や取捨選択能力を「成長」させて行ったのではなかろうか?
情報というのは、「生き物」であると思う。
人間にとって、有益な物もあれば、害をもたらすような物もあるだろう。
全部一緒くたにあって、混沌としたその中で取捨選択や自然淘汰されて、生き残るものは生き残るだろうし、たとえそれが害益しかもたらさないものであっても、もしかしたら逆説的な意味での存在意義があるのだと思う。
…でなかったら、この地球上の「情報」の何もかもが、全て「否定」で覆いつくされるのではないだろうか。
余談1…
その「安易なシェアによる情報拡散はいけない」と書かれた投稿のコメント欄に「そうですよね!シェアさせていただきます!」というコメントが、あまりにも多い数ずらずら~っと並んでいて、噴き出してしまった。
余談2…
この記事をFacebookに載せたら、2、3人ほどに友達リンクを外された。
批判も真摯に受け止められない、何が何でも自分の事を可哀相だと庇ってくれる友達がいる人って、ある意味凄いなぁという私感。間違った事をしているのを見てアドバイスや説教をすることなく、ただ庇うことが愛情や友情だと思うならば、世の中は全部間違いばかりしている人間だらけになるだろうね。